引き潮

海岸線をなぞる様に歩く
引き潮の海岸線はぼやけていて
何処を境目にして歩けばよいのか
 
迷う
 
引き潮である時間と
境目を見つけ出すために
彼女が先に付けていった足跡を
踵を合わせるようにして歩く
とてもゆっくりと
 
足跡は少しずつ
海の水が砂を持ち上げるので
浅く薄くなって行く
潮はあんなに遠くに行ってしまった
 
潮は僕らを呼んでいたが
昔の傷を思い出してしまう
潮に向かっては歩いて行けなかった
 
真夏
暗闇の中に投げ出された魚
潮は月に向かって行った
喜びを求めて
快楽を求めて
 
この浅瀬に打ち上げられた魚は死んだ
 
潮が戻ってきたときには
魚の目玉は赤くなっていて
鱗は水気を失っていて
 
潮は死んだ魚を海へと引きずっていった
しかし魚は息を返さない
世界は何も変わっていないけど
この魚が死んだのは事実だった
それからどんなに優しく波を立てようが
息を潜めようが
 
魚の肉は崩れ落ちて
ぬめりを残して海底の泥に溶けて行く
 
彼女は知らない
それで良いのだ
とても美しくて
時間を忘れさせてくれる潮
彼女の眼には
そう映っていればいい
 
魚を殺した潮だと知ったら
彼女はまた
泣いて過ごす日々を送るだけだ
 
でも僕は
この潮と
どう向き合えば
海岸線を決めて
そこから海に行かないようにするには
 
潮は
貝を集めようとしている
しかし一つも集まらない
僕は貝を一つ持っている
彼女も貝を一つ持っている
 
素直な旋律を
絶えず奏でる貝
潮は貝を手に入れられずに
大きな波へと変わった
足跡がズタズタに引き裂かれた
 
僕は彼女を抱きしめた
波の中に銀色に光るかけらを
見つけたからだ
真っ先に眼を閉じさせ
飛沫が当たらないように
僕は波に背を向けて
変わってしまった潮の香りを
嗅がせまいと顔をうずませて
 
頭の上を銀色のかけらは飛んでいった
死んだ魚の肉片だった
 
これが現実だ
 
そう思うと涙が止まらなかった
彼女は僕の涙を全部すくって
その白い服の胸元に染み込ませた
 
 
 
――冷たい…
 
 
 
彼女は僕に体温を分け与えてくれた
彼女の暖かい涙が
僕の胸元に染み込んでいった
 
潮は何もなかったかのように
彼方へ引いていった
次に満ちてくるまで
まだ時間がある
 
海岸線を東へ歩いて行こう